丹波佐吉物語


丹波佐吉

 1820(文政3年)
金兵衛に養われる

1861(文久元年)
 八幡さんに狛犬献納す



 今日は丹波佐吉の話をしようかの〜
佐吉は但馬竹田の貧しい家に生まれて小さき時に、お父さんもお母さんも亡くし叔父さんの家に預けられました。

 そのころ金兵衛は弟子たちを連れて竹田のお宮さんの仕事に出かけていました。
いよいよ仕事も今日で終わりじゃという日のことでした。


 金兵衛が弟子たちに「そろそろ飯にしようか」と言うと
弟子達が「へ〜い」返事をすると
弟子達が口々に
「飯時になると出てくる佐吉のやつ、ここ二〜三日すがたをみかけんが・・・」
「おおかた風邪でも引いとんじゃろう、握り飯をねだらんですみますわい」

 病気だ可想そうにの〜」と金兵衛が言うと
弟子の一人が
「お〜、親方、噂をすればなんとやら佐吉のやつが何やら持ってきまっせ」

 「おいちゃん〜」と言うと佐吉は金兵衛の元にかけよりました。

 金兵衛は「佐吉、ここ二、三日姿を見なかったけど何しとったんじゃ」
と心配そうにききました。

 佐吉は「観音さん作とったんや、これがそうじゃ」と金兵衛に見せると、

金兵衛は「どれどれ、これがお前が・・・阿保な事言う、こんなもの大人でも出来んわい」
と言って弟子達に見せました。

「ほんまじゃ、ほんまじゃ、
佐吉のやつ嘘を言うとる
嘘を言うと鬼に舌を抜かれるど、こん な物お前に出来たら苦労せんわい」





すると、佐吉はそばにあったノミを
とってコツン、コツンと石を彫りかけました。


コツンと石をうては耳が出来、
たちまちのうちに土蔵さんの
姿が出来ました。

金兵衛や弟子達は、だだビックリすりばかりで
昼飯を食うのも忘れて見とれている
ばかりでした。

 金兵衛には、子供がいなく、
早速、佐吉の叔父さんの家に行きこの話をし自分の子として育てたいとおねがいしました。



金兵衛の妻、芳が「今日は金兵衛さんが帰って来る日じゃが日が暮れかけた」

「お〜い、お芳、帰ってきたぞ」
「ハーイ、あんた長い間ご苦労さんでした、早よう上がって・・・ほして、その子は・・・」
不思議そうに芳は、たずねました。

「ああ、この子は佐吉と言って可愛い子じゃろ〜貰ってきた」
「ねこや犬じゃあるまいし、貰ってきたといっても・・・」
「ささ、佐吉、
おっかさんと呼んでみ〜」
と金兵衛に言われると
「うん、おっかあ」
と佐吉は言いました。
「おお〜可愛いこと言うて、早く上がって温もんない」
と嬉しそうに言いました。
佐吉、今日からは、
おっかあと一緒に寝るんじゃど」金兵衛言うと
佐吉がうなづきました。
「賢そうな子じゃ、これで家の中もにぎやかになりますわい」と芳が言いい

そりゃ〜そうじゃ、このわしが見込んだ坊主じゃわしも、これでもっともっと仕事に勢が精がでるわい」
と嬉そうに金兵衛は芳にいいました。

佐吉は金兵衛夫婦に大変可愛がられ腕もめきめき上がり、五歳になり京、大阪にも佐吉の名が知れ渡り、丹波佐吉と言われるようになりました。




「おっとう、わしももう十五歳なった、他に見習にに行って腕を
磨きたいんじゃけど」と佐吉が言うと
「そうじゃのう、早、十五歳か〜、お前の年にはわしも奉公に行っていたからのう〜」金兵衛が言うと
「私は反対です。
他へはやれません。この子とは別れません」と芳が怒った様に言いました。
すると金兵衛が
「阿保なこと言うな、佐吉の腕はそこいらの職人ん腕は違うんじゃ、
京や大坂へ行って腕を磨けば日本一の石工になれる」
 「わしは、お父さんやお母さんの元を離れるのは辛いけど…日本一の石工になって、お父やお母を幸にしたいんや」と佐吉が言いました。
 「そりゃ有難い事を言ってくれるが〜お前と離れるのが淋しいの〜」と芳が淋しそうに言うと
「何を情けない事を、人は他人に仕え辛抱してこそ大きくなれるのじゃ」と金兵衛は芳にいいました。
それから佐吉は、金兵衛夫婦の許しをうけ、昔、
金兵衛の奉公していた
大阪の石為へ一通の紹介状を懐にして旅立っていきました。


佐吉は「お願いします。丹波の金兵衛の子のこと佐吉と申しますが」
「お〜、佐吉と言うのはお前か、仲間の間では丹波佐吉と言ってよう話は聞いておるが、して用は」と不思議そうに為は尋ねました。
「へい、この手紙をご覧いただき、弟子にしていただきたく存じます」と佐吉は答えました。
為は「これは奇偶じゃ、よい処に来た。今ここに静山といって笛の名人が、きておられる。この間から石でも尺八を作ってくれと難しい事を言われて困っておったのじゃ。どうじゃこれも何かの縁じゃろうから、手始めに作ってみては」

 佐吉は「いや〜そのような難しい事がわしには〜」と首をひねりました
すると、笛の名人、静山が言いました
「佐吉とやら、聞いていおれば中々の腕前のようじゃ、石の尺八は形だけではいかんのじゃ。天竺にも一本しかなく、その音色は十里四方に広がり、抜いた刀は鞘に納まり、矢は宙に止まり、怒っている者はしずまる程と聞いておる。この笛が出来れば日本一の石工じゃ」

佐吉は、この話を聞いて密にやってみる気になり、その夜から人目を避けて淀川に堤に出かけコツコツと石の尺八作りに励みました。

ある日、佐吉は「あ〜あ、早半年も過ぎたわい、えらい事を請け負ってしもうた。形が出来たら音はでぬし、音を出そうと硬い石で作ると割れてしまうし…もう此れで七本目じゃ、この笛が鳴らなんだら大阪にも居られん丹波にも帰られん」
 笛を口にあてて吹くのが怖くてなりません。
 ただぼんやりと月を眺めていました。ふと耳を澄ませてみると、遠くから小さな虫の音がしました。
 佐吉は「そうじゃ、あのような小さな虫に負けてたまるか」と笛をとり、ひと吹きすると、
 今まで吹いていた風がぴたりと静まり、淀川の船も止まりました。

 この様子を遠くから眺めていた、笛の名人、静山が「お〜その音じゃ、やったやった日本一」と駆け寄ってきました。
 

 佐吉は、嬉しさのあまり丹波の空に向かって「お父、お母〜」大きな声で叫びました。

この尺八が有名になり
宮廷に献上されました。


そのご、佐吉は病におかされ遠くの地でなくなり丹波の地を踏むことはありませんでした。

          
 
 
 
 
 
 
 
 

 臼井邦昭 プロフィール
臼井邦昭 プロフィール

1935年 
 丹波市氷上町絹山生まれ

1973年 
 福知山市、豊岡本美術展に初入選

1981年 
 新世紀美術協会神戸支部展に初入選・初入賞

1982年 
 新世紀美術協会東京本展に初入選

 丹波文化会館美術展で兵庫県知事賞
 新世紀美術協会神戸支部展で神戸市長賞
  以後、開展で読売新聞社賞、
  神戸文化協会賞、神戸市教育委員

 会賞などを受賞
1884年 
 丹波文化会館美術展で兵庫県知事賞
 〔以後、招待となる。〕

1986年 
 丹波文化会館美術展委嘱作家賞

1987年 
 新世紀美術協会準会員推挙

1988年 
 春日全国氷彩画展初入選[以後、同展に14回入選]

1989年 
 全国郵政美術展で大賞

1993年 
 福知山市美術展で奨励賞
 [以後、同展で奨励賞8回]

 新世紀美術協会東京展佳作賞
1996年 
 新世紀美術協会を退会

1998年 
 豊岡市美術展で教育委員会賞

1999年 
 豊岡市美術展で特選

003年 
 三田市美術展で優秀賞

 兵庫県美術家同盟展で兵庫県芸術文化協会賞
2004年 
(2月) 
  たきの町公募美術展で特選

(3月) 
  第5回全国公募八千代風景画大賞展で大賞
  [買上]

(5月) 
  第
45回記念公募兵庫県
  美術家同盟展で第
45回記念同盟賞
(7月) 
 第
25回三田市美術展で優秀賞
2003年 
 三田市美術展で優秀賞

 兵庫県美術家同盟展で兵庫県芸術文化協会賞


2004年 
(2月) 
  たきの町公募美術展で特選

(3月) 
  第5回全国公募八千代風景画大賞展で大賞
  [買上]

(5月) 
  第
45回記念公募兵庫県
  美術家同盟展で第
45回記念同盟賞
(7月) 
 第
25回三田市美術展で優秀賞

2005年 
(4月) 
 第
45回「日本水彩画会卜県支部展で
 兵庫県知事賞

(5月) 
 第
46回公募兵庫県美術家同盟展で
 「会員」に推挙さる

  第93回日本水彩展に初出品、初入選
 (6/1〜6/10、東京都美術館)
 (7月) 第26回三田市美術展奨励賞
2006年 
 第1回丹波市美術展入選

2007年 
 第2回丹波市美術展入選

2008年 
 第3回丹波市美術展入選

2009年 
 日本水彩画会支部展入賞

2009年 
 兵庫県美術家同盟巡回展(三木市役所)出品

現状

氷上美術協会会長
氷上文化協会常任理事
丹波美術協会副会長(事務局)
丹波文化団体協議会理事

絵画愛好家サークル講師

コープカルチャー柏原「水彩画講座」講師

アトリエ
〒669−3641
丹波市氷上町絹山625−1
臼井邦昭
電話・ファックス
 0795−82−7446
個展15回

G店8回

  

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