○ 史跡・伝説 ○ 足跡を経て今を知る
沢山の旧跡・伝説が眠っております。
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 石見神社の祭神である谷垣石見守は、隣村との領地争いを囲碁勝負での解決を図り、みごと勝利して村人に平穏な暮らしをもたらしたと伝えられています。その功績は今日にも語り継がれ、平成4年の大祭では「日本一大きい石の大碁盤」が奉納されました
 
 
 
 
 高見城跡
高見城は嘉暦二年(1927)丹波国守護職にあった仁木輯章か築いたものて.本丸は高見山の山頂にある.室時代の後期には赤井家清か城主となったが.天正七年(151)
織田信長の命を受けた明智光秀の兵火によって落城した。

昭和四十一年柏原町吻窄文化財
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 母坪城は後屋城の赤井一族に属していたと言われている。天文二年(1533)に、細川晴元側から寝返った八上城の波多野晴通の攻撃を受けたという記録がある。このときの城主は赤沢景盛であった。やがて、一時播磨へ難を逃れていた赤井時家が復活すると共に、母坪城は被官の稲継壱岐守が拠った。しかしそれも天正七年(1579)八月十五日、明智光秀の攻撃により落城、壱岐守は討死した。
   『母坪城跡案内板』より
 
 
 
 
 丹波柏原の石工で難波金兵衛この弟子で、丹波佐吉と呼ばれた石工が江戸末期に砂岩系の石で、かなりの数狛犬を彫っている。
金兵衛の元で職人としての修行を経て、旅職人として大阪の石屋で仕事をいていた時に職人仲間と、石の笛を彫る、競争をし見事な石笛(尺八)を彫り上げた逸話がある。
この石笛見事に鳴ったと言う。後に、天皇に献上され何処かの宝物殿に、保存されている(行方不明と言う説も・・)
◆丹波佐吉物語を読む◆ 
 
 
 
 
 父親の石工:難波金兵衛が文政5(1822)春、石戸山から出る良質の石を求め春日町野村から柏原町大新屋に移ってから名工・金兵衛の名は広く近在に知れ渡り、嫡子の金助を二代目金兵衛に仕立てたいと力を入れ、親の天分を受け継いだが金助の非凡の才も人々を驚かせていた。11才で2代目難波金兵衛(旭義継)を名乗り15才の頃には遠く播州からも名声を聞いて彫刻を頼みにくる者も多かった。その頃丹波佐吉は大和長谷寺の観音を彫っていたが途中病にかかり成功が危ぶまれた時、佐吉は金兵衛を推し、招かれた後を受け継いで仕上げた像は丹波佐吉を凌ぐかと思われた
 
 
 
◆区 域◆
本村は氷上郡の中央南部に位し、東は柏原町に接し、西は沼貫村、北は生郷村、南は久下村に接し、総面積は11、1平方キロメートルである。
 明治22年6月町村制実施の際、挙田村、大新屋村、鴨野村、北山村、田路村、母坪村の六部落を以て組織せられた。此地方は昔、挙田郷、新屋庄の名を以て知られた所で、今の新井村の大部これに属していた様である。叉新屋庄は(今の挙田、大新屋、鴨野、田路の四部落に相当するか)竹内文書、後宇多院領目所載、室町院御領の内、丹波新屋庄とある。叉久下文書、文明3年(1472)細川勝元の奉書によれば、新屋庄領家職安堵の事を記載している。依って既に室町時代の初期より、その領家職であったのである。徳川時代に、柏原藩織田氏、石原氏、佐野氏、本多氏、植村氏、小堀氏の諸主に分領せられ、後、廃藩置県により領属の関係上、生野県、久美浜県、豊岡県の所属となり、更に明治9年兵庫県管轄となり、郡役所設置、戸長役場を置き、明治22年町村制実施と共に、新井村を組織するようになった。昭和28年9月、町村合併促進法の実施に拠り、新井村は柏原町と合併して、町名を柏原町とし昭和30年10月1日を以て発足した。  新井村誌より

◆新井村、名の由来◆
 大日本史国郡志によれば、往昔挙田郷は現在の「挙田村より郡中央以南」とあって、今の新井村の大部これに属していた様である。叉中世新屋庄は現在の新井村(挙田大新屋鴨野田路)の大部に相当したことは、久下古書明応8年12月19日久下道祖丸知行注文に、明かに新屋庄と記入してあるから、明応年間(約460年)以前よりその名を用いていることは明らかである。
 村名新井の名称はその由来明らかでないが、古より当地方は一体の低地で、水郷として湿地帯で悪水になやまされたと思われる。清水を得ることは住居にとって絶対的な必須条件であるが、文化の程良の低い時代に良水を得ることの困難さが想像される。さる意味から、我等の祖先は常にこうした所を探し求めて恰好の所によい井の清水を探し得て、その所に安住の地を定めて、新らしい村を作った処から、新井の名弥がつけられたのでなかろうか。
 尚叉一説に太古この里に土民が住みついて、村を作り始めた頃から、畑を開き水郷を干拓して、農耕生活が進歩して行くにつれ、この里の水田に新らしく、区劃井然とした条里制が布かれたので、この意味から新井の里としてその名祢が附けられたとの説もあって、いづれを真とも定めかねるが、いづれにしても、この土地に根を張った具体的な裏付けが必要である,しかしその名弥は郷、里の名称より古く、郷、里の名は大化の改新和銅年間(1248年前)に附せられたものなれば、少くともそれ以前既に附けられたものと想像される。            新井村誌より

 ◆新井村 沿革◆
 新井村は、前述の如く中央南部に位して、古の挙田郷の大部を占めて中世新屋庄と称したが、沼貫村との境に仁木頼章(後赤井忠家)の寵って居た高見城(佐野城とも云う)があった関係上、その支寨の如き山寨が多く、仁木氏勢力を失って後、久下氏これに代ったが年代が明かでない。
 久下古書、明応8年(1499)12月19日の久下道祖搖ロ知行注文には明らかに新屋庄と記入してあるから、明応以前より之を領していた。其の後永正6年(1509)導祖丸の子駿河守政光、新屋庄名主百姓中へその山林を売却した。その永代売券状は別記(新山沿革の項)にある。
斯くして永世年間に於て久下駿河守より、永代売渡を受け、これによって広大なる新山は、全く大新屋外四カ部落の所有の確証を得た。その後赤井氏勢を振い、殆んど全庄内を領有したが、天正7年、明智氏の為に滅ぼされ、藩政時代には一時天領となり、後に本多、佐野の二麾下と柏原藩に分領せられた。地勢の大部分は山岳にして、僅に北方のみ田野を以て、郡中央部の平野に連なる。田園は古より開拓せられ地味豊沃で、農耕も盛に行われた。唯土地低く、湿地帯で排水困難のため、祖先の人々は幾度か悩まされた事であろう。併し近頃逐次改良せられて干田となりつつある。尚本村の山岳は過半共有林であり、その面積の大に比して林業の発達は充分でないが、将来必ず一大富源となり得るであろう。
この地は太古山雲文化の影響を受けて、古くより開拓せられた所であって、比較的多数の古墳が散在している。殊に大新屋、鴨野の高見山麓地帯の如きは、規模の大きい円墳が点在して居り、将来これ等の遺跡は考古学研究上好資料となるであろう。                             新井村誌より
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新山管理組合

 今から500年前、永正6年(1509)戦国時代に武力ではなく新山を米銭百石百貫で買い受けたことは偉大である。
我々は代々これを守っていかなければならない。

 衷五百町歩に及ぶ新山は、遠く500年の昔より大新屋外四ヶ村民の物心両面の支えとなって民生に大きく寄与し、将来も永くわれらの宝庫として地域振興に碑益するであろう。
 新山は代々受け継ぎ育ててきた先人の血が脈打っている心のふる里であり、新山の沿革はそのまま地域の歴史でもある。新山は永正6年(2509)に米百石銭百貫を代償として五ヶ村の領有となったが、以後100年にわたって山争いが続発、元和年間(1615)に至って谷垣石見守の功労により紛争は解決して侵犯は跡を絶1郷人ひとしく恩恵を享受、宝永元年(1704)墓碑を建立、文化5年(1804)に石見神社を発祀してその徳を讃えた。大正11年に入会権見返り分二十町歩を柏原町へ分割、大正14年林野に際し一五九町歩を五ケ部落縁故使用地に設定。昭和20年 石戸開拓地を創設、三十町歩を分割譲り渡し、昭和25年 五ケ部落縁故使用地を分割管理、昭和30年の町村合併には102町歩を新町持ち寄り財産とし、残余一二八町歩を旧新井村縁故使用地とする。昭和32年 新山六ヶ部落縁故使用地管理組合を創設し。一部を分割管理に委ねる。その後柏原町新山縁故使用地管理組合と名称改める。近年では平成4年には石見神社に日本一の大碁盤奉献、平成5年鳥居奉納、囲碁ボール発祥の地として各集落に囲碁ボールセット配布、奥石戸林道橋架け替え。平成10年 阪神淡路大震災で傷んだ石見神社の高塀補修、平成11年北山ふれあいセンター竣工に際し常岡画伯の絵画と囲碁セットを寄贈。平成15年石見神社社殿改築・石見神社縁起碑奉納(谷垣岩身氏)。平成十六年丹波市発足記念として新井小学校裏山に遊歩道整備、地縁認可団体として「新山管理組合」と名称変更。毎年の主な事業は石見神社例祭(4月11旦、石見守墓前祭(9月23旦、囲碁ボール大会協賛・石見守杯囲碁かいばら大会支援、平成18年より新井自治協議会助成などを行なっています。

  
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 おーい火事やぞー、奥山が火事やぞー」 激しい太鼓の音とともに、山番がわめき、ながら、新屋の村人達を火消しにかり立てました。「また奥山が火事かいのー、この忙しいのにほんまにしょうのない」□々に、小言を言いながら鎌やナタをもって走り出して行きました。 このような出来事は、ずっと前から度々あったのですが、ことに最近は毎日のように起こるのでした。
 村の人々が奥山と呼んでいる所は、正しくは石戸山のことで、薪や田の肥やしにする草刈り場としての大切な山で、昔、新屋村が中心になり、外四ヶ村がいっしょになって、米や全て久下庄から買い取ったものです。けれども、時がたつにつれてこのような出来事は忘れられ、久下庄の人々は石戸が久下庄の谷にあり、川も久下側に流れ込んでいるから「ここはわしらの土地じゃ」とおおっぴらに薪や草を刈りに人いるようになりました。
 困り果てた新屋の者は山番を置き、見張りをすることにしましたが、なおも山へ入って来るので、山番とケンカが始まり、あげくのはてに、山に火を放って、いやがらせをしていがみ合っていました。
 その頃、新屋庄には石見守、久下庄には駿河守というえらい殿様かおり、それぞれの村を治めていました。
 二人はたいそう碁が好きで馬が合い、お互いに行き来していました。
 
今日も今日とて、パチン、パチンと夢中で二人が碁を打っている最中に山火事騒ぎです。「石戸が火事か、火事なら碁で消せ」「焼けたら石戸はまっ黒こげ」「碁石は黒い」お互いに勝手な独り言を言って、火事を告げる太鼓の音も上の空でした。この時、はたと、駿河守がひざを打ち、「石見殿、今なんと言われたに」「いや別に」「火事なら碁で消せと言われたであろうが。そうじゃ、いつまでも石戸山をこのままにしていてはケンカがつきぬ。お互いに言い分はあるが碁で勝った者によって境を決めたらどうであろうか。」「うむ、それも方法かもしれん。しかし石戸は買い取った山であるし今さら・・・」
こと石見守は重たい返事をしましたが、外にこれといった良い思案も浮かびませんので、駿河守の言うように決めました。「それでは、お互いに気の変わらない内に…」と、翌々日石戸山の原っぱで勝負をすることにしました。
 しかし、約束はしたものの、このところ石見守は、三回に二回は駿河守に負けであり、「えらいことになった、負けでもすれば村人に申し開きができん、どうしたものかごと思案なげ首になり、かねてから碁の相手をしている村一番碁の強い家来に相談をしました。すると家来は、「心配はご無用に存じます。私におまかせ下さい、良い考えがあります。傘に小さな穴を開け私か傘を持ちましょう、その穴から射す光を碁盤にあてて、次の手をお教え致しましょう。
 もし天気が悪くて日が射さねば、猪鹿、猪鹿と申しますゆえ猪は前、鹿は横へ打っていただきます。山での事ゆえ猪鹿ぐらい言っでも感づかれません。猪と言えば『どこに』と問われれば私か『一丁先、二丁先』とお答え申し上げますこれで必勝間違いありません。」「なるほどのう、これは名案じや、うまく頼むぞ」万事打ち合わせがすみ、石見守は安心をしてその夜は休みました。当日は秋晴れのとっても良い日和になり、山の本々は一段と美しく照り映えています。
 石見守は家来をつれて、いそいそと石戸山へ出かけました。打ち合わせたように傘をさしてみますと、秋の日が傘の穴から糸を引くように碁盤の上に射してきます。首尾は上々、二人は顔を見合わせにっこりとしました。
 そんな謀り事があるとは知らぬ駿河守、むずかしい顔をして碁盤をにらんでいます。手合わせは三番勝負としましたが、先に二番続けて石見守が勝ちました。駿河守は、残念そうにため息をもらしましたが自分から言った手前、今更どうすることも出来ません。石見守の言うように石戸山の境は決められました。
 久下庄の中には、不満を言う者もいましたが「殿様が良かれと思ってなされた事だ、いつまでもケンカをしていてもらちがあかん、仲よくするのが一番じゃ」と皆んな、納得しました。それからは、石戸の山火事騒ぎもなくなり、両方の村人達はたいそう仲よくなりました。
 今も石戸山には、山南町側から入ると、栗林の中に左大新屋、右柏原への道しるべがあり、その辺りが碁場と言われており、当時の面影が偲ばれます。
 谷垣石見守は実在の人物であり、戒名は新功院殿松山永昌大居士として、三宝寺に境内心お墓があります。
新井村誌によると、509年11月11日太新屋名主、久下駿河守より石戸山を買受くとあります。 

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 新井村の内挙田、大新屋、鴨野、北山、田路の五ケ部落の共有山で、大新屋所属の新山(俗に石戸山)と称する山は、本郡久下村、柏原町、小川村、新井村の四ヶ町村の間に介在して其の面積は官反別、百捨三町歩(実測約五百町歩)に亘る旧記に依れば、永正六年(1509年)11月11日久下村城主久下駿河守政光より、新屋庄百姓中に対し米銭百石百貫を以って永代売渡を受けこれによって、新山は全く新井村五ケ部落所有の確証を得た。
 然るに時代の変遷推移により元和承応の頃より久下新井両村間には新山の水域が久下村に流れておる関係上、前記の如く永代売渡を久下城主より受けておるにも拘わらず争論?々起り相互に下らず竹鎗を以って人を傷つけ、夜火を放って山火事を起こす等のことあり、再三京都奉行所に訴え裁断を乞う等、争論久しきに渉って解決せず、ここに於いて古来伝説によれば石見守は、久下領主と共に之を憂え相議し相計り囲碁勝負によって永遠の解決を計らんと提唱した
 石見守は雄大な雅量と忍耐力の旺盛な方であって、掛碁によって雄雌を決っせんとするには、平素より囲碁手合わせの際、若干相手方に弱みを感ぜしめた後、真剣勝負となって真の力量を発揮するを得策としていた。依ってこの未曽有の対局には深遠な知謀を発揮し活殺自在遂に石見守の勝利となり、新山は永遠に新井方の所有に帰し、爾所有権については紛議全く治まった。
 茲に於て新井村民は此の偉大なる功績を徳とし、其の報恩の為、宝永年間三宝寺門前字奥と称する畑の中に墓碑を建設した。
 其の後三百余年を経て文化の頃新井神社境内、向って左上段に石見大明神として梁三尺桁三尺の祠を建立し、毎年十一月十一日鎮祭の式典を挙行し一般村民も参拝した、而して此の新山より生ずる材木、松茸等年々収益は巨額に達し、小学校基本財産、村財産収入として村政上多大なる恩恵に浴し叉、村民の農家に必要な薪緑肥は悉く此山に於て伐採し以て生計を営む者少くない、これは全く石見守の遺沢に依るものであるから、村民が古来石見守を敬慕し碑を建て祠を造営し厚く報恩謝徳の祀典を挙来たのも誠に故ありというべきである。而して時運の進展に伴い石見守の遺徳景仰の念益々深きを加えるに至り、今後一層厚く其の神霊を鎮祭して、子々孫々に至る迄、報恩の至誠を竭そうとする至情により、当時頽廃せる社祠石見神社の改築の議が起った。かくて大正3年10月現在の位置、即ち大新屋部落有地元辨天神社の敷地の壊渡を受けて、北山部落大工能勢林吉をして、社殿の改築にあたらしめ其の周囲に練塀を造り現在の如く其面目を一新することとなった。ここに於て大正3年10月11目賑はしくも臨時大祭を施行。

尚其の後毎年4月11日例祭を行い3年毎に大祭を施行することになった。
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 高見城祉
 丹波高原の西端に位する高山であって、海抜479メートル、東は大新崖で南北共に山岳相連り、殊に南方は石戸山の深谷を控えて最も要害の地となっている。東西両面は断崖絶壁で、鴨野部落より登るを便とする、高見城は今る去る約630年前、嘉暦2年(1327)後醒醐天皇の御代、仁木伊賀守頼章の築いたもので、当時仁木氏は武家方の将であって丹波に入国したものである。建武の中興の頃、参議源忠顕を国司に任じ、確井盛景守護代となる。足利尊氏の叛くに当り、仁木頼章をして守護職となす。建武3年(1337)尊氏西国より再挙して上洛、京師を平定、尊氏、高師泰等建武4年正月元日越前金前城を攻め同月6日未明落城す、此時仁木頼章の家臣久下彌三郎時重の三男重基、仁木氏に隨って軍功があって、依って頼章軍忠状を贈って深く之を賞した。
 発向越前国金前城今月2日付、屏之刻以石破打之条、尤神妙於、恩賞者厳密
 可中沙汰之状如件
建武4年3月5日 伊 賀 守 花押(仁木頼章)
 
後仁木頼章の子義尹を守護職となし、仁木氏此城に拠ること三世にして一時廃墟となったが、当時北地の豪族赤井五郎忠家この域に居住す、赤井氏は清和天皇=貞純親王の御裔で同氏は足利の中期より、もっとも努力を有し殆ど本郡の大部分及び但馬朝来郡に勢力を振い、自ら丹波半国の押領使と称した。
 
天正年間黒井保月城と同時、即ち仝七年7月、明智光秀の将、四方田但馬守政孝の兵火にかかり落城す。幸家、策の施すべもなく、自ら陣頭に立って奮戦したが衆寡敵する能わず、自殺せんとした処、家臣の諫により遂に父忠家を件って遁れて、郡内に流浪したが、光秀の追究益々急であった。(左記の古文書によりその間の消息を窺うことか出来る
 
今度赤井五郎御成敗之儀被仰出任上意之旨申伝候
 仍在々所々不寄誰々急度可還住者也
 天正7年8月24日
 氷上郡寺庵中  高見山下町人中
 所々名主中    所々百姓中
 事情斯の如有様で、久しく郡内に止まるを得ずして、京都に逃れたが、敵の詮索厳しく遁れ得ないのを知り、遂に山城男山にて自刃す。忠家更に遁れて諸国を流浪し慶長十年遂に伏見に於て歿す。高見城址の南方に落城の際、鎧を着ながら落ちて死すと、その謂として南方に落合鎧といふ所がある、俗に本丸と称するは、その頂上にして平地約40坪がある。それより下方四段の階段があって、凡て廓の跡と察せられる。
 
是より北南に連る山背に廓の跡と見るべき石垣塁等諸々に散在す、尚本丸より約6町西南に360〜370坪許の平地があって之れを中の台の城といい、又出張の場とも云った、大手は佐野村側の岩石重塁せる処で、俗に釘貫門というは、即ち大手門の跡である。鴨野村の中に裏門として古跡、字に釘貫門といって居る。尚堀の内という字等もある。鴨野村の脇の山麓には所々家中屋敷跡、並に古塚等があって、近年石塚より、四尺余りの太刀等堀り出した、叉山上本丸跡よりは当時の米麦の焦げたものその他硯等を発掘す。
 尚高見城の東南に当り字、磐若寺と称する所があって、住古高見城の祈念所の寺の所在地で、同所に虚空蔵堂があって、三体の御尊像を祀ったが、廃寺と共にその一体は鴨野に一体は母坪に現在安置されている。
 現在頂上より下方約20メートル北に面する平地に、愛宕神社の小祠がある。

 参考の為明智軍記の一節を転載す
 丹波八幡山合戦事  明智軍記
 寿永の昔、今井、樋口、楯、根井が倶利迦羅、篠原の戦も之には過ぎじとぞ覚えける、国主の兵返し合せ競ひ進んで攻戦ふ、双方作る閧の声は天を響し地を動かす、互に粉骨を尽し攻戦ひしかも、赤井方は終に打負けて討たるる者若干にして過半は川へ追入れられ水に溺るる者数を知らず大将赤井五郎宗夏は数か所の疵を蒙り、南なる山手に付て播磨指して落行きけり、赤井悪右衛門宗重は五十騎許りに討ちなされ、居城をさして引けるが、保月城に早や火の手の上がるを見て、今は偖とや思ひけん、川端より取て返し散々に戦ひて、明智左馬助が郎党林半四郎という者に終に討たれてぞ失せにける、扨々叉金山の宿に居陣しける輩は、大将光秀より昨夕密事を牒せらるるに付き、各々評議して三宅式部、三宅周防守、和田木工助は三百余騎、当所に残り奥田宮内、村越三十郎、今峯頼母、同新助、五百余騎は八幡合戦必定と聞くならば、急ぎ戦場へ参陣すべし、明智十郎左衛門、藤田伝五以下は逞兵千二百余騎を卒ゐで敵の楯籠る高見城へ是非に馳向ひ有無に雌雄を決すべしと相定めしかば、其の道二里の所を諸事に障らず急ぎ進発しけるに、高見の敵は皆々八幡へ出陣しけるに依て、漸く城を守るもの共に二百許にも足らざりげれば、敵に寄せられ周章て騒いで防兼ねて見へけるを、明智、藤田頻りに下知し攻入りしかば、外廓を捨て本丸へ引入りける間、寄手の者共二三の丸まで込入り陣屋々々を焼き払いたり、この折節八幡合戦の最中の時刻にて討死しける輩には赤井九郎左衛門、同彦兵衛、伊田美濃守、本庄新左衛門、久下禰次左衛門、同主殿助、同新之丞、荻野常陸介、福井真浄軒、同監物、中沢越後守、波多野忠左衛門、同主馬助、赤松土佐守、同刑部大輔、同玄蕃、佐川左衛門尉、舎弟次郎兵衛、真嶋采女正、長山藤左衛門、浦上薩摩守、菅野出羽守、同主馬助、衣笠河内守、村岡太郎兵衛、大河原権助、同伊織、以下宗徒侍の四百三十騎都合一千余人なり、既に高見の本城も落去りければ、枝城何れも降参いたし、天田郡、氷上郡残らず相静まるの故、今既に一国平均に成りしかば、国主の者共万歳を唱えて各帰宅にぞ赴きける、信長公、此の由を聞召され、惟任日尚守方へ今度丹波静謐に討治る条、神妙に思召の旨にて御感状を遺はされけり、老臣明智左馬助、同治右衛門、比類なき働の由上聞に達し御褒美として左馬助に一文字の腰物を賜はり、治右衛門には多加谷?といふ御馬を下されけり、誠に面目之に過ぎるとど見えにける。
                              新井村誌より
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 本村の西北部にあって、母坪、稲継、見田の部落に面して、往時、稲村岡と称する岡続きの北端にあって、東と北に柏原川が流れ、西は本郷川の流れをひかえ、母坪稲継の田園と見田を眼下に望む要害の地である。永正の頃より赤井景遠稲継壱岐守の居城で、黒井城の支城として保月城(黒井城と同名)叉は猪の山城の名称がある。天正7年(1578年)8月明智光秀の夜襲により落城す。城主壱岐守は笛の名人として知られているが、壱岐守落城に際して、月光美しい夜、高殿に上って、今生の思い出として「松風」の一曲を吹奏した。其の玲瓏たる妙音は敵明智勢の陣中まで流れ、そぞろ郷愁の念にかられたと伝えられる。壱岐守この一戦とばかり、花々しく討って出たが、明智の大勢の前には、衆寡敵せず、遂に落城に至ったのである。城主壱岐守は弟左門とともに、城を落ちのびて、福知山有馬玄番頭に仕え、後子孫は筑後久留米にありと云われている。城址本丸の北に二本松という古松があった、この所より望めば氷上平野の絶景が一目に見渡される。
                               新井村誌より
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  丹波佐吉は元、日下氏、後、村上照信と称す、佐吉は其の通称である。但馬国竹田の貧家に生れ、幼にして父母を失い孤となる。たまたま本郡大新屋村の石工難波金兵術之を憐み、且つ己れに子なきを以って養子として連れ帰る。
 時に文政三年佐吉僅かに五歳であった、後に金兵衛(二代金兵衛)を生むに及んで、佐吉出で、村上氏を名のり石工を以って業とした、長ずるに及んで、大和伏見大阪の各地で業を習う、天才的の支能益々熟し、長ずるに及んで殆ど天下佐吉に比肩する者なしと称せられた。
 大阪にては専ら南堀江竜平橋の石為に仮寓しで居たが、酒す飲まず妻を迎えず、専心斯業に傾倒したので其の名声益々揚がる、而して尚旧師金兵術の恩を忘れず、己が郷里を問はば必ず、丹波大新屋なりと答えた、依って人皆これを丹波佐吉と称した、佐吉初め丹波に居る頃読書を大新屋上山孝之進に学ぶ、其の関係よりして、上山孝之進は田口金治と共に狛犬を柏原八幡宮に献ずる為之を佐吉に命じて作らしめた。
 其の手法等殆ど他に見ない逸品である、その台石に彫刻せる文字は筑前の女儒者亀井小栞の筆であるが、小栞揮毫の依嘱を受けた時、佐吉の之を彫すべきを聞き、喜んで筆を執ったと伝う、今八幡社前にあるもの即ち是れである。

 本村化山稲荷神社前の石狐一封も同人の名作である、其の他大阪難波五番町石工小西家伝吉の所持せる文珠菩薩像大新屋上山家所蔵の不動尊像、大阪舎利寺の役行者像等逸品中の逸品として推奨に値する。
 叉佐吉大阪にあった頃、石を以って尺八を作ろうと同業者間に互に競い何れも成功しなかったが、独り佐吉は遂に之を製作し、其の音実に微妙を極めた、依って公卿某の手を経て、孝明天皇に之を献じたところ天皇痛く之を賞せられて、日本一なりとの賞辞を給うた。
 爾来日本一の名世に顕はる。晩年精神に異状を来したので大新屋に帰り静養したが、治せず遂に一日瓢然と家を出でて帰らず、為めに其の終わる所を知らない。
                             
新井村誌より
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 父は本郡町村に生れ、父と同じく金兵衛と称した、初時孤となる、漸く長じて摂津伊丹に赴き石工となって多年修業す、早くより大新屋石戸山に良石あるを熟知し、文政五年居を大新屋に移して専心斯業に精進益々其の技を磨く、現在柏原町新町端にある高灯籠等は天保七年五月同人の製作にかかり、其形状頗る整然たるものである。安政三年十二月死す、之を初代金兵衛となす。
 二代 金 兵 衛
 初代金兵衛の長子、二代金兵衛旭義継と称し、年十一歳にして父と共に播州加東郡市場に至り記念碑の文字を彫刻したが、二代金兵衛の手法最も優れ、途中より義継一人にて之れを成功したと云う、十五歳にして播州穂積に於て石の扉に牡丹に唐獅子、竹に虎の模様を彫刻したが、実に傑作であった、叉本村大新屋部落入口にある、高灯籠を作ったが、手法非凡にして遠近の石工これに倣うもの多く、其の後大和長谷寺の観音を丹波佐吉に命じて彫らしめたが、中途病に罹りて遂に其の成功を見ず寺僧大いに惜んで佐吉に其の後継者を物色させた、慶応三年の頃同寺狛の前足を踏める手毬を透彫した時、同業者の嫉を受けて毒を羞められ為に久しく四肢の自由を失ったが帰郷快復後益々斯業に精励した、二代金兵衛の製作にかかるもの多々ある中にも、栗賀領主の五輪塔、本郡常楽村大崎神社の狛犬、高山寺の観音、南多田明顕寺の薬師、朝坂の行者、神池寺の大師、但馬当勝の稲荷、京都北野神社の温石の牛等は皆傑作であると伝えられる。明治三十五年歿す。
                              
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