○秋祭り・お寺・神社○ 「凄い!」と言える合同祭礼 歴史ある神社!
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

合同祭礼
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指定種別:無形民俗文化財 (丹波市指定)S53.10.18
名   称:大新屋新法師踊り(おおにやしんぽちおどり)
保持団体:大新屋区
奉納日時:体育の日の前々日 午後7時30分頃〜
奉納場所:丹波市柏原町大新屋 新井神社

「新法師」の語義から考えて、新しく仏門に入った僧達の踊りであるとも解され、雲水の伝えたものとも考えられる。
 歌詞の内容から考察して、室町時代の発祥ともいわれ、定かではないが、慶安年間(16481651)頃より伝わったともいわれている。
 はじめは五穀豊穣を祈る踊りであったが、天保年間(18301843)雨乞い祈願を奉納してから雨乞い踊りといわれるようになった。またこれを奉納するのに米百石を要したことから百石踊りともいわれている。
 墨染法衣・法師笠・瓢箪頭の杖を持つ新法師頭一名が指揮をとり、音頭取り・大太鼓打ち・鞨鼓打ちなどそれぞれ特色のある衣装をまとい、踊り子多数とともに踊る。
 踊りは単調であるが、16拍子・32拍子などの拍子があり、入端・露の踊・菅笠踊など9種の踊りがある。

 
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 本 光 山  三 宝 寺

大新屋字山ノ口571番地

 
臨済宗、妙心寺派本尊、

 十一面観世音菩薩

 
 本光山三宝寺は、今を去る480余年前、後土御門天皇の御宇、摂政関白藤原政家征夷大将軍足利義尚の時代、文明四壬辰の年太宗守順和尚(甲斐国寺快川国師の法嗣と伝う)の開基であって、当時は迦藍宏壮を極め諸堂よく備ったと云われた。然るに天正年間明智光秀の攻勢により、高見落城の際、兵火に罹り全山焼失し、伽藍坊舎及什宝等悉く烏有に帰した、その後直ちに再建、慶長11年に至り再び不慮の災火によって、全宇焼失。同13年、音岫和尚小宇を再建したが、その後幾多の星霜を経て目然諸堂宇荒廃甚しく、その間の盛衰消長はあったが、古記録なき為詳細を知る事が出来ない。天保4年(1823)中興の英僧譲嶽慧宋和尚これを憂い荒廃せる当山を再興し、大いに寺門興隆に努めた。
   尚同6年納屋を建築する(現在の本堂納屋これである)
   現存せる棟札写大略
   丹州氷上郡大新屋村三宝禅寺
   上梁合一宇 現住持比丘慧宋
   天保四星舎癸巳小春吉旦
 明治32年4月24日住持純叟恵良和尚宝蔵並に鐘楼建立鐘堂は当地北山田口昭造亡父追善の為寄進、但し梵鐘は戦時中供出し現在なし。大正9年4月住持紫野江堂和尚檀下の浄財により山門建築し、その基礎工事費を含め、総費用3192円を要した。かくて伽藍等境内の整備により逐年その面目を一新するに至った。寺院境内面積382坪内総建坪261坪である。往昔より当時門前に茅畑があって、その茅を以て、本堂屋根葺きの材として居たが、世の推移と共に純叟恵良和尚、之れを開墾し畑地とした、従ってその材を得る能わず以後年々檀下より一戸あたり麦稈4貫目を提供して、屋根葺きをしたものであるが、昭和29年に至り、檀下の総意により、各戸の浄財を得て、総費用40万9千円を以って、本堂屋根全部トタン張葺きに改造す。本堂正面お厨子に安置せられるのは、本尊十一面観世音菩薩の尊像で、その右側に達磨大師の尊像を祀る。
 寺宝として梵鐘がある、その銘に「現住志楽叟、維時延享四卯歳」とある、尚本堂正面「本光山三宝寺」の額裏面に「明和六歳己丑七月七日現住元玲記焉、施主当村地蔵講中」と記す。
 尚本堂南側の隠寮(二間に三間の平屋建)は前住紫野江堂和尚、私財を以って、昭和11年10月の建築によるものである。昭和23年政府の農地改革法令により、当寺の不動産田1町4反畑4反全部政府の買収地となった。現在檀徒数170戸にして、現住持は小沢円応師である。
当寺は高見城跡東部の山麓静寂の地にあって、裏山には老松茂り、初夏の時鳥の声は幽雅なる山寺の興趣を添え、春は門前参道の桜花吹きほこって、山門に一層の風致を加えている。
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   円 通 山  観 音 寺

田路字北地602番地

臨済宗妙心寺派

本尊 如意輪観世音苔薩
 由    緒
 円通山観音寺は、人皇百三代後土御門の御宇、文明時代今を去る480年あまり前大宗守順和尚の開創にて更に第二世、明岩和尚寛文年間に於て寺門興隆に努め面目を一新した。

その後100余年の星霜を経て、自然伽藍の荒廃甚しく延享2年6月第7世、知芳和尚本堂を再建す。即ち現在の伽藍がこれで、建築した大工は播州見記町藤原朝臣、前田孫兵衛なりと伝えられる。
 境内に別の堂宇がある。明治初年まで部落氏神藤代権現の別当宮寺、覚王山浄満寺の本堂で、当時宮の下にあったが、明治30年井本和尚の時、現在の境内に移して別院としている。中央に大日如来、右に観世音菩薩、左に毘沙門天王の三体を祭る。大日如来は弘法大師の作といい、他の二体は足利時代初期の名作と伝えられる、古くより例年8月17日に観音祭が執行されている。
 大正の末期氷上郡内に八十八ヶ所の霊場札所が設けられてこの観音菩薩は第17番霊場札所として多数の参詣者があった。尚境内の土蔵は同30年10月新築した。次で大正13年郷土の篤志家当時東京都在住矢本平蔵の宿願により、東京金竜山浅草寺の御本尊観音の分霊を奉安している。
 同年大阪市在住の上田市蔵の寄進によって山号碑を建立、題書(円通山)は相国寺管長橋本独山禅師の筆。昭和2年矢本平蔵先祖追善のため多額の浄財の寄進により本堂を大改造した、同5年大阪市在住足立光二等の寄進によって石門を建立す、昭和28年8月境内西南の地に戦没勇士十六往を祭る霊場が設けられた。当山は古くより上久下村中本山恵日寺末であったが、明治34年本山妙心寺直末となり、現在檀徒75戸、開山太宗守順師より現在正孝禅棟師まで17世である。
 寺院境内480坪、堂宇建坪延べ100余坪、じしが岡山麓にあって、裏山に老桧松茂り、前方には柏原町平野を一目に眺められ、初夏に訪れる時鳥の啼き声は、古寂びた山寺の静寂を破り、得も云えぬ幽玄味をそそる。
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小島山 妙見寺

母坪字 小島山

日蓮宗 妙福寺の所属

本 尊 大茶羅及北辰大菩薩
 由    緒
 安政3年3月、母坪稲畑の両村信者特志浄財の寄進によって、創建奉祀したもので、御本尊は、日蓮聖人奠定、大茶羅及北辰妙見大菩薩尊像を奉安し、能勢妙見宮の御分霊と伝えられている。
 当時は福知山市常照寺住職、随時出張して、祭祀し国家の興隆と国民の福祉と安泰を祈願した。その後大正12年当時住職第七世荒川円浄師の夫妻が妙見宮の再興を計り、堂宇の改築住宅の改善に尽して、面目を一新し、更に昭和4年4月、庫裡の大修理を行い、昭和6年5月、日蓮聖人650年忌を記念する為、宝塔を寄進建造す。昭和16年兵庫県知事の認可を受け京都府福知山常照寺の所属より、多紀郡篠山町妙福寺の所属に移管して現在に及んでいる。
 随って信仰する者も多く、一時は非常に栄えた。境内は往古より伝わっている稲村岡の中央にあって、眺望よく風景絶佳である。
 尚叉特に境内桜樹多く、花の頃は参詣者多し。現住職は谷口慈恵師である。
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六 柱 神 社

祭 神 
 伊邪那岐神 伊邪那美命 天照大御神

大国主神 須佐男命 事代主神

鎮 座 地 
 新井村挙田字天王山弐拾九番地


挙田の産土神
 由   緒
 当社は元、現在の社地より少し北の森林中に創建鎮座されたが、元和8年(1622年)今の地に改築奉遷せられ、後、本殿は延宝6年(1658年)の再建にかかり、其の規模梁弐間四尺桁行六間の六社造りであった。明和9年の風害を被り大破倒壊、同11年4月社殿並に拝殿を新築して、現在に及ぶ、境内に神輿堂、鐘楼等がある。明治6年村社に列し、明治37年10月12日官林土地一反九畝十四歩を境内に編入の許可ありて、壱千参拾九坪六合の境内地となった。
 往古挙田郷時代、挙田の天王様と称して、近国近郷の尊崇を集め、参道は遠く横田より直行したと伝えらる。大正年間県道の上二十余米の場所にて、鳥居の足跡と鳥居材の大埋木を発掘した。尚旧社殿所蔵の掛額に、元和8年8月と銘がある、これらの点より考察すると、当神社の創建はそれ以前の時代のものと思われる。
 例祭は旧暦9月9日であったが、後改めて10月17日とし当日は神輿の渡御の神事があり、新井神社に於ける立合祭礼に参加する。神輿は天保6年造営
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新 井 神 社

祭 神
高 皇 産 霊 神

鎮 座 地
新井村大新加字湯の森五百十四番地


大新屋の産土神
 由   緒
 本村の総社である
 本社は欽明天皇の朝の創立になると言われ、郡内延喜式内十七社の一座である。
 古来朝廷の御尊崇篤く勅命に依り屡々奉幣せられ叉往古より新井五箇邑の総社として衆庶の崇敬極めて深かった。
元当社は今の社地より約八町許り奥字滝が谷、矢降という所に鎮座されたが、天正年間、明智光秀の当地高見城を攻めた際、兵火の為神殿並に別当坊と共に焼失した。
 後世現地に社殿拝殿等改築して、現在に及んでいる。
 
社殿の構相は特別保護建造物に近いものであると称せらる。
 文政時代神仏混淆のため、神宮寺日吉山王鎮護寺と称して、比叡山の守護神、江州坂本の山王の分霊を分祀し真言宗の一派とせられ播州円満寺末となり当時は社僧が居て、崇敬せられていた。
 明治初年神仏分離の際独立、旧記によって、新井神社の社名を復活して、明治6年10月村社に列し、明治37年四月13日境外上地林弐反四畝廿五歩を境内に編入方許可せられ、大正14年7月31日兵庫県幣帛料供進指定となり、更に同15年5月郷社昇格と共に、式内神社の確認を得て本村五ヵ部落の産土神となった。
 社殿は三社作りで、社殿二間半に三間、茅葺にて総べて古代式の建築である。境内に舞堂、神輿堂、鼓堂、社務所等があり、社頭境内地凡三町余、昭和28年12月社務所を元の位置に改築して、構相を一新した、昭和17年10月4日より現在の上滝専任神職が奉仕している。
 例祭は旧暦9月9日であったが、後改めて10月17日とし当日は神輿の渡御の神事があり、当社に於て五ヵ部落の立合祭礼が行われる。
 註 氏子大新屋四箇庄五箇村とあるのは、大新屋、田路、鴨野、挙田の四力村として、之を大新屋四筒庄といった其後鴨野村の人今の北山村の所に移住したが、追々人口増加したので、延宝時代の検地の時北山村と称した、爾来大新屋四箇の庄五箇村と唱える様になった。
尚銘中前佳阿闍梨長策、宥厚法印、沙門品明等の名あることに依って、神社には古えより社僧のあったことを証することが出来る
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石 見 神 社

祭 神
谷垣石見守


鎮 座 地
新井村大新屋

 由   緒
 宝永年間、谷垣石見守は新山治山に対する偉大な功績あり。本村に於ては自治功労者として、その鴻業を讃仰し、其の恩恵を偲び、今より140年前文化の頃、新井神社の境内、向って左の上段の地に、石見大明神として奉祀することとなり、梁三尺桁二尺の祠を建立して、毎年11月11日鎮祭の式典を挙げて、一般村民参拝して、その遺徳をたたえて来た。
 其の後時運の進展に件い、石見守を景仰すること盆々厚きを加え、一層その御霊を鎮祭して後世に至るまで報恩の至誠を竭さんとする至情によって、当時頽廃せる社祠の改築の儀起り、大正3年10月現在の位置、即ち大新屋部落有地、元弁天神社の敷地の譲渡を受け、大工北山能勢林吉に托して社殿を改築し、其の周囲に煉塀を造って、其の面目を一新することとなった。

 石見神社百五拾年記念式典式辞

 例年の石見神社祭典こそは本村の年中行事のうちで最も重要な行事でありまして、毎年今日4月11日は全村民が業を憩み御遺徳を偲んで報恩感謝し御神霊を祠り彌栄えを祈念する意義ある喜びの日であります。
 特に本年は百五拾年の記念式典を挙行するに当り小職謹んで爰に式辞を述べます事は私終生の最も光栄に存ずる次第であります。文献によりますると吾々の祖先は谷垣石見守の偉大な御功績を徳として石碑を建立し霊を慰め以て報恩感謝せられ尚今から約150年前の世代に於て初めて新井神社境内に石見守大明神として御神霊を祠り、毎年11月11日を期して御祭典を様行取りうになったと申されておりますので特に本年の例祭を百五拾年式典として御祭りをする事に致したのであります。近くは大正8年に現在の場所に御神殿を建立せられたのであります。
 この当時から陽春4月11日に御祭典の日も変更せられたとのことであります。 抑も谷垣石見守が領主としての御存命は永正年間でありまして、今から約450年前であります。当時新山の所有椎について色々と物議が起りまして円満な解決がつかず時の久下領主と共に石見守は大変憂慮せられて、何とか公平な解決策を見出さんと多大の御苦心と努力を払われたという事であります。
 伝説には色々と伝えられておるのでありますが、時代の変遷に件い今更事新しく往古の伝説について兎や角黒白を論ずることは御神霊に対して洵に申しわけがないと存じますので、差控えたいのであります。降って明治弐拾年頃より先輩の手によって林野整理が着手せられ、禁伐松林が設定せられ、叉砂防工事指定地として山林保護の施策が講ぜられたのであります。年を逐うて山の姿は変り今日其余沢は着々と挙り特に学校建築等の莫大な臨時費は勿論のこと年々村財政面には多大の収入財源となり、村民の負担軽減せられつつある現実の御恩沢は実に広大無辺であります。

 僅々300戸を以て自治体の存立を営む吾新井村こそは全く新山の富源によって活きると申し上げても過言でないと思うのであります、依って石見守は吾新井村自治体の開祖であり親であります。爰に全村民が崇敬して御神徳を偲ぶときに石見守の雄大なる雅量と旺盛なる忍耐力に加えて活策自在の深遠なる智謀によってこそ斯く偉大なる御功績は後世に燦然として、輝いておりますことを深く銘せなければならんと思うのであります。
 現世を生を享けております私共は静に御神慮を拝察して敬虔なる祈念を捧げますときにひしひしと報恩感謝の念禁ぜずして最大の感激を覚ゆるのであります。吾々は先輩の意図を継ぎ計画的な林野資源の増殖と、森林施業案の完全なる実施を回り後、世子々孫々に御神徳をより善く伝うる大きな責任と義務を持つものであることを、本日の式典に当り村民各位と共に謹んで御誓い申したのであります。
 定めし御神霊は吾々の今後進むべき方途について過失なき様御加下さるのであります。何卒村民各位の強き報恩感謝と奉仕的の御協力を望んでやまない次第であります。
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八 幡 神 社


祭  神 
受母智之神 誉田別命 大山咋神

 鎮 座 地
新井村鴨野大字 西方寺

東鴨野の産土神

 由 緒 
 当社八幡神社の創建は、寛政6年(1794年)一月で稲荷神社、日枝神社を合祀し、東鴨野西方山麓の小高き浄地に鎮座境内に社務所がある。
 昭和8年の再建、同10年鳥居を建造、夏祭りは旧暦8月19日秋祭は旧歴9月9日であったが、後10月17日に改められ、加茂神社祭典と共に新井神社立合祭礼に参加する。
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加 茂 神 社


祭 神
鴨別雷之神


鎮 座
新井村鴨野字岡端142番地ノ1


鴨野の産土神

 由   緒
 古来の口碑に依ると、後醍醐天皇の御代、即ち建武年間の創建で、往古災火に罹り証憑書類煙滅して、その由緒詳かでないが、旧社殿は現在の社地より少し南方の森林中に創建鎮座されたと伝えられている。
 今の社殿の構造及用材状況より考察するに、長享年間(約470年前)の建立であると称せられているが、其後幾度か修理されて現在に及んでいる。
 明治6年10月村社に列せられ、境内弐百五拾九坪と定められたが、明冶37年10月12日上地官林六百五坪を編入し、八百九拾八坪九合五勺(官有地第一種)となった。
 明治41年厳島神社(元宮池中に祀る)、大歳神社を合祀したが、大歳神社は、故あって昭和10年4月旧地に社殿を改築して祀る。境内には舞堂、神輿庫等がある、舞堂は大正10年6月20日改築した。例祭日を10月17日に改め、其後変遷があって、神興の渡御も新井、加茂二社のみとなった。尚当日は旧慣による湯立の奏楽を奉納する恒例があったが、今は廃れている。
 当社の祭神は京都上加茂神社の分霊なりと伝えられ、葵祭といって例祭といって例祭は5月3日である。尚当社の鐘堂は宮池の傍にあるが、昭和17年10月太平洋戦争金属回収により釣鐘を供出した。当社の棟札弐枚あれども古きもの一枚文字不明
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稲 荷 神 社

祭 神
受母智之神


鎮 座
新井村北山字西地90番地ノ2

北山の産土神
 由 緒
当神社は明暦2申年(1656年)8月8日、田原市三郎と云う者京都に至り、吉田殿に於て御神体を懇請し、同月28日に遷官鎮祭したことに始まる。元録11年2月再建、明治6年10月村社に列し、明治37年10月12日、境内136坪の官有地に、278坪の上地林の編入を許可せられ498坪7合1勺となる、境内に拝殿、神輿堂、鐘堂等がある。社前に安政5年8月勧請による源照信(丹波佐吉)の名作石狐の一対がある。例祭は元旧暦9月9日であったが、後に改め10月17日、当日は、新興渡御あり、新井神社立合祭礼に参加する。神興は文政8年京都にて御造営、例年葵祭と称して五月卯の日祭儀あり。昭和30年社殿の大修理を行う
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藤 代 神 社

祭 神 
豊受姫命 熊野坐大神 藤代王子


鎮 座
新井村田路ジヽガ岡十二番地


田路の産土神

 由 緒
 境内は部落の東北に位するジシガ岡の頂上にあって、鎮守の森として清浄の地となっている。創建の年月は不詳であるが、往古より此の地に鎮座せられ、五殼豊饒と体力増進とを祈る神として、広く崇敬されている。
 尚祭神に就いては一説として、藤の森神社の御分霊なりとも言伝えられる。明治6年10月村社に列せられ、境内社頭六百三十坪五合官有地第一種である、境内には拝殿神輿堂等がある。社前一対の石灯篭は延享年間の建立

 例祭は旧暦9月9日であったが後10月17日に改められ当日は神輿太鼓神輿の祭儀が盛大に行なわれ、尚4月3日の御当、9月9日の御日特等の祭が例年とり行われる。
 神輿は文政7年申9月造営、後大正9年5月再び新調、同年大烏居を建立、昭和26年4月秋田県在住の矢本健次郎等の寄進により、社殿上屋が改築された。岡の中腹に延享年間鋳造の梵鐘があったが、昭和17年太平洋戦争のため金属回収により供出した。
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和 泉 神 社


祭 神
水速女神

鎮 座
新井村母坪字和泉 弐拾参番地

母坪の産土神
 由 緒
 当社は後柏原天皇の御代永正5戊辰年(1509)の創建で部落の中央西の岡の麓字和泉と云う所に鎮座。後世、延宝2甲寅年(1674)霊元天皇の御代に再建、昭和2年10月火災に合ったが、幸い御霊体は安泰であった。
 同3年10月3日社殿新築遷宮鎮祭された。例祭は旧暦9月9日であったが現在10月17日に改められ、尚当日は旧慣として、湯立神楽の奏上する特殊の恒例があったが今は廃れている。社地十間余舞堂鐘堂等がある。古来柏原藩織田氏の崇敬厚かったと伝えらる。
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石 戸 神 社

祭 神
天照皇大神 高皇産霊神 谷垣石見守


銃 座
石戸山開拓地字米山の麓


石戸の産土神

 由  緒
 石戸山(新山)部落は昭和20年11月緊急開墾事業集団地として、開拓せられ、入植者は15戸であった。産土神として昭和22年9月27日、通称米山の麓の清浄地に石見神社の社祠を建立した。
 この小祠は元本村小学校裏山、暁山に祀れる祠堂の譲渡を受けて、ここに移したものである。例祭は10月17日、当日新井神社立合祭礼に参加する。
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